「苦労して入るほどの学校か? 権力にビビりながら送る学校生活に何の意味があるって言うんだよ。我慢して続けるよりさっさと辞めちまった方がいいんじゃないのか?」
「そう言う金本は、辞めないのか?」
「俺は別にビビってもいないし、媚売ってもいねぇからな」
「でも今さ、苦労して入るほどの学校か? なんて言ったじゃないか。その程度にしか思ってないような学校に通う理由が、お前にはあるのか?」
問うてから、田岡と呼ばれた生徒は あぁ と口元を緩める。
「大迫さんが居るからな」
少し茶化すような視線に聡は一瞬絶句し、フイッと視線を外へ投げた。
「美鶴が居たって、無意味だとわかったらこんな学校、いつでも辞めるよ」
だがな と再び向き直り
「俺は、お前みたいに黙って頭下げてるつもりはねぇぜ。やられたらやり返すよ」
「やり返す、か」
少年は苦笑し、サッシにかけた手元を見つめた。そうして、呟くように静かに言った。
「俺さ、色盲なんだ」
「へ?」
「色弱とか色盲って言葉を差別だなんて言ってくれる人もいるけれど、俺は別にどっちでもいいと思ってるよ」
それまでの話題とはあまりにかけ離れた言葉に、聡は目を点にする。その表情に田岡は笑った。
「赤い色が判別できなくて、黒く見える」
そう言われてもどう反応すればよいのか返答に窮する聡。田岡は、とても穏やかに笑っている。
「小学校に入学する時に、親は学校に告げていた。先生たちも理解してくれて、極力赤い色は使わないようにしてくれていた」
視線を空へ向ける。だがその瞳は、高い空のもっと向こう、遥か昔へ向けられている。
「でもやっぱり苛められた。四年の時くらいから徐々に酷くなってきて、目に赤いマジックで悪戯された事があった」
「え? 目に、って?」
軽く生唾を飲む聡へ向ける視線は穏やかなままだ。まるで、自分ではない別の人間の話をしているかのよう。
「白目の部分を、マジックで赤く塗りつぶされたんだ」
思い出して悲しむような素振りもない。そんな相手の表情に、聡は微かに寒気を感じた。
穏やか過ぎる表情が、かえって怖い。
そんな聡の視線に気付いていないのか、田岡は構わず話を続ける。
「同級生に押さえつけられて、無理矢理瞼を抉じ開けられるんだ。目に近づけられるマジックが怖くって必死に眼球を動かすと、ホラー映画みたいに白目剥いちゃう。そこにマジックで落書きされた。白目剥いたところをデジカメで撮られてネットにも流されたよ。あの頃はまだ小学生で携帯持ってる奴なんてほとんどいなかったからな」
倫理やモラルといった感情を備えていない児童たちは、時として非情とも思える行動を当たり前のように起こす。いや、それは成人でも起こりうる事か。
「すぐに先生にバレて同級生の親たちが謝りに来たけど、ネットに流された写真は今もどこかで漂ってるかもしれないし、同級生たちはそのまま学校に通ってたし」
唖然としたまま言葉も出ない聡とは対照的に、田岡の表情は穏やかなまま。まるで、一切の感情を捨ててしまったかのようだ。笑っているのに、無表情に見える。
「学校って、楽しくなかったな」
「それでもさ、同級生みんながそうだったワケじゃねぇだろ。先生だってわかっててくれてたワケだし」
「そうだけど」
そこで瞳が少しだけ細められる。
「あの事件の後さ、授業で先生がうっかり赤色のチョークを使った事があったんだ。俺がさ、見えないから別の色で書き直してくれって言ったらさ、先生、黒板を向いたまま溜息をついたんだ」
田岡の瞳が虚ろに動く。
「赤色がどんな色かなんて俺にはわかんないけど、あれは間違いなく赤色のチョークだったと思う。でもあの一瞬みせた先生の態度は、まるで俺が間違った事を言ったかのような雰囲気だった。振り返った先生は申し訳なさそうにごめんごめんって謝ってくれたけど、あぁ、嘘だなって思ったよ。悪いなんて全然思ってないって。俺みたいな生徒なんて面倒だって思ってるんだなって、そう感じた。もう無理だなって、その時思ったんだ」
無表情のまま再び聡と向かい合う。
「でも、ここではそんな事はない」
突然、田岡の口調に力が込められた。と、聡は感じた。田岡は無意識だったのかもしれないが、小学時代を語っていた時よりもずっと力強い。
「先生が生徒を侮ったり見下したり、面倒な存在だという態度を見せることはない」
以前、涼木聖翼人や蔦康煕から教師の立場は弱いのだと聞かされた。それが本当なら、彼の話も納得できる。
「色盲を嗤うヤツもいない」
聡は何も言えない。言えないまま、黙って相手を見返すのみ。
「イジメなんて、唐渓を出ても存在するんだ。でもここでは、こういった身体の一部や、成績とかを取り上げてバカにするような奴はいない。家柄や親の収入で上下関係が作られることはあっても、理不尽にからかわれたりする事はほとんどない」
そこで初めて、少年は笑った。本当に心の底から笑っていると、聡は思った。
「俺は、唐渓は他の学校よりも居心地は良いと思っている」
「そっ」
そんなっ と言い返そうとして、だが聡は言葉が出ない。
唐渓は居心地が良い?
教室内を振り返る。山積みにされた本。
こんな扱いを受けているのに、唐渓を居心地が良いと言うなんて。
否定も肯定もできないまま絶句している聡の表情に、田岡は軽く伸びをしてグルリと首をまわした。
「入学した時から、生徒それぞれの立場が決まっているんだ。それに殉じて行動していれば、争いごとに巻き込まれたりする事もない。こうやってちょっとヘマをしてしまえばそれなりの報復は来るけれど、素直に応じていれば身を破滅させる事はない」
「そ、そんなの」
聡は今度は声をあげた。
「それこそ理不尽じゃないか」
大した驚きも見せない相手へ向かって、聡は身を乗り出す。
「だいたい、入学した時から立場が決まっていて、黙ってそれに殉じて行動するだなんて、そんなの理不尽すぎる。おかしいよ。立場なんてものが存在するなら、それを確立するのは自分自身だろ?」
だが、聡の言葉に少年は凛と反論した。
「それは、粗暴な輩の言い訳に過ぎない」
粗暴。
同じような言葉を、聡は義妹の緩から吐きかけられた事がある。
二の句のつけない聡を、田岡は真っ直ぐに見上げる。
「常に争う事を好み、人の上に伸し上がっては他人を見下したがる人間の作り出した、都合の良い言い訳にしか過ぎない」
「言い訳?」
「そうさ」
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